お知らせ

初めて読まれる方へ

「夢を叶える方法」や、俗にいう「引き寄せの法則」に関する書籍や記述はこれまでも数多くありました。 こうした「願望を実現する方法」にどことなく漂う胡散臭さや宗教っぽさを排除して、オカルトやおまじないの類いで終わらせず、誰もが日常生活の中で実践できる「生活の智慧」にすることを目的に、2018年に執筆を開始したのがこの「Change the World」です。
願望実現

願望から意図へ(1/4)|vol.104

あなたの願望は叶ったらそれで完結なのでしょうか。いま抱いているその願望が完結しても、きっと続きがあるでしょう。例えば、プロ野球選手が夢だったとします。プロ野球選手になったら夢は叶ったことになりますが、願望はそこで終わりでしょうか。きっと次の夢は個人タイトルを獲ることだったり、そのチームで優勝することだったりするでしょう。
願望実現

できないというブレーキ(4/4)|vol.103

出来ないという思考が浮かぶこと自体は仕方がありません。そのときにその思考をどうするかです。その思考がなければ、考えるまでもなく出来るのです。「出来ない」という思考が浮かんだときには、「それは自分には決められない」「わからない」と答えるといいでしょう。その答えを自分以外に手渡すのです。
願望実現

できないというブレーキ(3/4)|vol.102

願望を諦めるとは、ごく簡単に言えば自分には叶えられないことを知ることです。いかなる願望であっても、あなたはその実現に関与していないし、関与できません。繰り返しになりますが、自分が叶えるわけではないのです。 では願望の実現は何に委ねればいいのでしょうか。今までは自分に委ねて頑張っていたことと思いますが、自分が叶えられないとなると自分以外に委ねるしかありません。
願望実現

できないというブレーキ(2/4)|vol.101

あなたの願望が「お金持ちになりたい」だとします。その答えは「なれるかなれないかわからないし、それを決めるのはあなたではない」です。どうでしょう。「なれない」「難しい」「どうしたら」と悶々とするより、よっぽどスッキリするのではないでしょうか。一抹の寂しさを感じるとは思いますが、その潔さが大事です。
願望実現

できないというブレーキ(1/4)|vol.100

仮にあなたがお金持ちなら、お金持ちになりたいという願望は持ちません。そしてもし現状ではお金持ちでないとしても、お金持ちになれることがわかっていれば願望とはなりません。お金持ちでもなく、お金持ちになれないと思っているときに限り願望となります。 こうして考えると、願望とは「なりたい」という希望に溢れたポジティブな状態というより、「なれない」という困難さを伴ったネガティブなものと言えそうです。
願望実現

可能性の議論をやめる(4/4)|vol.99

当たり前の話なのですが、あなたの願望はまだ叶っていません。叶っている、可能だ、できる、そう思っていることは既に叶っているか、叶っていなくても当たり前にできることだから願望とはならないのです。例えば、水を飲むということは現時点では叶っていなくても、当たり前にできることがわかっているので願望とは呼ばないでしょう。
願望実現

可能性の議論をやめる(3/4)|vol.98

願望を持つことがいけないと言っているわけではありません。願望を持つことは構わないのですが、それを叶えるのはあなたではないということを知ってほしいのです。できるできない、可能不可能、なれるなれない。あなたとってその部分はコントロール外の神の領域ですから、神なりサンタクロースなりに丸投げして任せた方がよほど堅実なのです。
願望実現

可能性の議論をやめる(2/4)|vol.97

大人の場合は自分の能力や周囲の状況といったことから実現可能性を算出しようとしますが、子どもたちにとってそんなことはお構いなしです。叶うか叶わないかはさほど重視しておらず、純粋に叶うと信じて祈りを捧げます。大人と比べて遥かにシンプルなのです。 願いが叶うかどうかが、自分にはわからないことを子どもたちはよくわかっています。
願望実現

可能性の議論をやめる(1/4)|vol.96

「これがしたい」という思いに応えるために生まれるのが願望ですが、願望に対して「できるかできないか」の判断基準を使うと実現が遠のきます。そこで新しい判断基準を「したいかしたくないか」に設定します。現実にできるかできないかではなく、現実にしたいかしたくないかで考えるのです。 そもそも、できるかできないかの判断は自分にはできません。願望が実現するか否かは「わからない」というのが正直なところでしょう。
願望実現

思考の基準を変える(4/4)|vol.95

「それは可能だ」という思考を妄想扱いするなら、「それは不可能だ」という思考が確かである証拠を示してほしいものですが、はっきり言って可能か不可能かという基準には根拠がありません。なんとなくフィーリングでそれを採用しているだけです。 本当は裕福と困窮を判断した最初の基準もフィーリングなのですが、困窮が真実という思考を繰り返していくうちにガチガチに固めてしまったため、フィーリングという一言では崩せなくなっているのです。