願望から意図へ(3/4)|vol.106

願望実現

素朴な疑問なのですが、今できないことはいつできるようになるのでしょう。いつか出来るようになる日を願うのが願望なのでしょうか。当たり前のことですが、どこかのタイミングで出来るようにならなければ、いつまで経っても出来るようになりません。「自分には出来ない」が「自分にも出来る」にならなければ、同じ状態が再生産され続けることになります。

「自分には出来ない」が「自分にも出来る」に変わったときに願望が実現するとしたら、そう認識するためには何が必要となるのでしょう。「したいこと」があるときに浮かぶことは二つしかありません。「自分にも出来る」か「自分には出来ない」かです。

最初は「自分には出来ない」と認識していたことでも、何らかの手応えを感じる映像を見ると「自分にも出来る」に変わっていくことはよくあります。では、その手応えを感じる映像を偶然見ることが出来るまで、実現を待たなければならないのでしょうか。

その手応え映像は見られるかどうかわかりません。それを見なければ「自分にも出来る」と認識できないとしたら、全ては偶然に頼る他なくなってしまうでしょう。実現と非実現の境目は「自分には出来ない」と「自分にも出来る」の単純な認識にあるとしたらどうでしょう。もしそうだとしたら「自分には出来ない」という認識はあなたにとって必要のあるものなのでしょうか。

辛い現実を現実と判断するから苦しくなり、豊かな空想を空想と判断するからまた苦しくなります。真偽の判断は何も生みません。自分にとっての是非で判断するといいのです。真偽のほどはともかく、自分にとっての是非です。

お金の問題で例えてみます。「そのお金が払えるか払えないか」は真偽の判断であり、「そのお金が払えた方がいいのか払えない方がいいのか」は是非の判断です。一般的に「払えるか払えないか」は現実的な見解とされますが、そうではなく「払えた方が気分がいいのか、払えない方が気分がいいのか」という視点で判断を行います。現実的ではなく、心情的な判断です。

こういう言い方もできるでしょう。「出来るか出来ないか」ではなく「したいかしたくないか」。願望を持っていることが辛いのは「したいけど出来ない」からです。よって、「出来るか出来ないか」という可否の判断は行わず、「したいかしたくないか」の判断とします。

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