願望から意図へ(2/4)|vol.105

願望実現

願望を持ったときに「出来る、なれる」と言い切れるほどの積極的な根拠はないかもしれません。かといって、「出来ない、なれない」と言い切ることもできないはずです。出来るか出来ないかはわからないのですから、決めつける必要はあるでしょうか。

願望として持った時点で「出来ない、なれない」が前提であることに気付かなければなりません。極論に聞こえるかもしれませんが、願望を持っていることは不可能を持っていることと同じなのです。だから願望を手放すのです。願望を手放すのと不可能を手放すのは同じことなのです。

願望を持つことは不可能を示唆することと同じだし、そもそも可能不可能の議論が浮かぶこと自体、不可能を示唆しているのと同じです。例えば、歯を磨くということに対して不可能が示唆されることはないでしょう。そして、出来る出来ないの議論すら起こらないでしょう。

このことから考えてみると、不可能が示唆されず、可能不可能の議論が起こらないから歯を磨けるとも言えます。何を大袈裟なことをと思うかもしれませんが、一事が万事そのように「出来る、なれる」が決まっているとしたらどうでしょう。

不可能が示唆されたり、可能不可能について議論が行われているうちは「したいこと」は願望の形のまま存在することになります。願望とは不可能要素があることを認識している状態と言えます。常に不可能要素を抱えているため「今は出来ない、なれない」が基本となります。万物が瞬間ごとに変化しているのに、願望だけは置き去りにされたように停滞してしまいます。

それはあなたの言葉からも確認できるはずです。「したい、なりたい、実現したい」。裏を返せば「したいけれど出来ない」、「なりないけれどなれない」、「実現したいけれど、実現できない」何らかの要素があるということです。その不可能要素を抱えているため、すぐに「しよう、なろう、実現しよう」とならないのです。

歯を磨くことが「歯を磨こう」で済むのは不可能要素がないからです。不可能要素のあるなしは「したい」なのか「しよう」なのかで判別可能です。仮に歯を磨くことに不可能要素があるとします。シチュエーションとしては、手元に歯ブラシがないとか、水がないといった場合です。

そのときは歯を磨きたいが今は出来ないため「歯を磨きたい」となります。家にいて歯ブラシが手元にある状況では不可能要素がないため単純に「歯を磨こう」です。したいことが「したい」という希望なのか、「する」という確定なのか。「願望」と「既に叶っている」の境目はそこにあります。

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