過去という名の記憶が積み重なるにつれて、ある出来事に対する選択肢はむしろ絞られていきます。選択するまでもなく自動的に認識が行われることが多くなっていくのです。これは、いつも同じような選択を繰り返していくうちに、選択するプロセスそのものが省かれていくためです。自動的な現実の確定が行われていると言っていいでしょう。世界が薔薇色に見える人と曇天模様に見える人の差はここにあると言っていいでしょう。
偏った認識の癖とでも言うべきでしょうか。記憶の量に比例して、記憶に蓄えていく際の選択がフィルターを通さなくなるのです。吟味するまでもなく直接保存していっているようなものです。他人というものに対して良くない印象を選択してきた人は、やはり他人はこうだといった偏った選択のまま疑うことなく保存していきます。幸せに対しても、お金に対しても同様です。道理で同じような現実ばかり体験することになるはずです。
選択の偏りに気付かないままだと、選択肢が狭まるというより選択の余地がなくなります。嫌な思考を選択することが自動的になると、何を見ても嫌な現実に見えてしまうのも無理はありません。その思考の選択を疑い「そうかもしれないし、違うかもしれない」を口癖にしてもいいでしょう。あなたの選択肢の無さは僅かずつ改善していくはずです。
無数の思考が頭の中を舞います。そのうちどの思考が印象に残り認識となるか。認識されたものは現実となり、現実は過去として記憶されます。その一方で、認識に至らなかった思考や、認識された後、別の認識で上書きされた思考は現実とはなりません。
確実に言えることは、思考の全てが不幸せを語っているわけではないことです。思考は無節操で脈絡もありません。不幸せな思考しか湧いてこないはずがないのです。一見ネガティブなことしか考えていないように感じることもあるでしょう。それで「自分はネガティブな人間だ」と勘違いしてしまうこともあるでしょう。
そうではないのです。ポジティブな思考が印象に残っていないだけなのです。印象に残らないため認識も行われず、認識が行われないが故に現実とならない。ただそれだけのことです。あなたにも幸せな思考は確実に浮かんでいます。不幸せな認識に慣れ親しんでいるため見逃しているだけなのです。


