認識の木(4/4)|vol.67

願望実現

あることについて悩んでいるとき、そこにはその「あることの木」が生えています。認識によって生えるこの木は種々雑多な思考という名の果実を実らせますが、どれも美味しいとは言い難いでしょう。かといって、その木を切り倒す必要はありません。その木はそこにあっても構わないのです。あなたがその果実に目を奪われても、果実をもがなければ害はないのですから、違う木を探せばいいのです。

この例えを願望と実現に置き換えてみましょう。一つの願望は一本の木です。その木には無数の思考という果実がなっています。どの実を食べようかとあなたは悩みます。これまでいくつも食べてみたけれど、どれも美味しくはありませんでした。

率直に言うと、その木から美味しい果実を得ることは初めから不可能です。だから諦めた方がいいのです。けれど、あなたはこう言います。どうしてもこの木からなった美味しい果実を食べたいと。どうしてもこの木がいいんだ。どうしてもこの木じゃないとダメなんだと。

あなたにとっては「この木」から美味しい果実が得られることに意味があるのであって、たとえ違う木から美味しい果実を得ても納得しないのです。意中の人に対する願望はそうなっていないでしょうか。「その人」でなければ嫌で、「似たような人」では納得しないのと同じです。

だからこそ、その木はもう諦めた方がいいのです。仮にあなたの願望が意中の人に愛されることだとしましょう。あなたの中にはその願望の木が生えているわけですが、その木からは美味しい果実が得られることはありません。その木が実らせる果実は「どうすれば愛されるだろう」とか「振り向かせるために自分を変えたい」といったものばかりです。

なぜ愛されたいという果実、つまりは思考が発生するのかというと、現状は愛されていないからという単純な話です。つまりその木は「意中の人に愛されていない果実がなる木」なのです。愛されていない果実の木なのですから、当然そこに実る果実は「愛されていない」を彷彿とさせるものばかりです。つまり、あなたは「愛されていない木」から「愛されている果実」を収穫しようとしているということです。

ならば答えは簡単です。「意中の人から愛される木」を植えればいいのです。これまでと同じように水をあげ、実る果実を味わえばいいのです。これまでとは違う新しい木を植えること、それが認識の変更なのです。

タイトルとURLをコピーしました