微細な現実(3/4)|vol.62

願望実現

映像を言語化するのが認識、認識に議論を重ねる行為が思考です。「確かにそうなのか」「そうだとしたら変えるにはどうすればいいか」「そもそも変えることは可能なのか」等々、侃々諤々の議論が飽きもせずに毎日思考で行われるでしょう。

人生の問題は映像が認識されたときに発生します。映像の言語化によって思考で扱える形になると、今度はそれについての思考が起こります。その認識が好ましいものであればいいのですが、好ましいものではない場合、どうすれば変えられるか、そもそも変えることができるのかが議論されることになります。例えば、「あの人は私のことが嫌いだ」と認識したとしましょう。それを「あの人は私のことが好きだ」という認識に変えるにはどうすればいいか、といった具合です。

こう考えると願望を実現したいという思いは、「それ」に対する認識を変えたいという思いと同じだということになります。実は願望の実現と認識の変更は同じものなのです。要は「それ」に対するあなたの認識が変わりさえすればいいのです。かつては嫌いだと認識していたものが、今は好きだと認識できるといった具合にです。

それは仕事かもしれないし、特定の他人かもしれないし、お金かもしれません。それらに対する苦手意識や嫌悪感が無くなり「好き」という認識に変われば、あなたは気分が良くなります。それを味わいたいがために「どうすればいいか」と考えているのです。

悩みとは思考の堂々巡りのことです。そもそもの話ですが、最初の認識がなければ、言い換えれば映像の言語化がなければ思考も発生しません。思考が発生しなければ思考の堂々巡りも当然起こらず悩みはなくなります。なくなるというより悩めなくなると言った方が正確でしょうか。

これで、そもそもの発端が最初の認識にあることがわかったでしょう。映像が言語化されると現実として扱われますが、嫌な現実というのは何らかの好ましくない形で「これが現実である」と認識されたのです。

同じ出来事でも人によって、大したことのない出来事とされたり、深刻な悩みの種となる出来事とされたりしますから、現実とはずいぶんと曖昧なものです。同じ映画を観ても人それぞれに感想が違うのは、人それぞれの認識の仕方に違いがあるからです。

最初の認識が不快なものであれば、その認識から発生する思考は当然不快なものばかりとなります。逆に認識が好ましいものに変われば、当然発生する思考も好ましいものに変化します。不快な認識によって発生した不快な思考をどうすれば解消できるか、その手段が願望を実現することだったのです。

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