「思考を眺めてみよう」で述べた通り、思考とは言語であり単なる言葉に過ぎません。あなたは自分の現実を、知らない国の言葉で言い表すことができないのはもちろん、たとえ母国語でもあなたが見ている世界を余すことなく言葉で表すのはとても難しいことです。
あなたが目撃している映像を言葉で表現すると現実となるわけですが、実はその言葉はどんなものでも構いません。そもそも、思考はあなたが思っているほど意味のあることを言っているわけでもありませんし、言っていることの信憑性は誰にもわからないからです。
認識とは映像の言語化のことをいいます。小説が映像化されることがありますが、ちょうどそれの反対と言えるでしょう。いわば映像の小説化です。あなたは五感で感じ取りながら映像を体感します。この時点では単なる映像なのですが、一般的にはそれは現実と呼ばれます。
実際には映像を観た後、前後の筋書きや感想が加えられて初めて現実となるのですが、そのことに気付いている人はあまりいません。映像を観た段階では特になにか意味があるわけではなく、あなたが後付けでストーリーや感想を書き加えることによって意味のあるものとなるのです。
映像の言語化によって意味を持たせていると言った方が適切でしょう。なにが起こったのか、それはどういう意味なのか、といった風にです。思考の奴隷に成り下がってはならないのです。なぜなら思考が行っている映像の言語化によって、現実の意味が変わってきてしまうからです。よって、思考の奴隷になることは現実の奴隷になることを意味します。
言語化される前の単なる映像の状態が、この世界の本当の姿です。全てのものが刻々と変化し、あなたはただそれを眺めています。その後に起こる映像の言語化が現実の認識となります。人により、時と場合により、そのときの気分により、実に様々な認識がなされます。
ただし、誤解のないように言っておきたいのは、その認識が誤りというわけではないという点です。どんな認識であっても誤りではなく、どう認識しても構わないのにたまたまその認識を採用したということです。
逆に言えば、出来事をどう認識してもそれが現実となるということでもあります。外国語を直訳するか意訳するか、あるいは翻訳者によっても微妙に内容が変わることがあるでしょう。これはそうしたことと似ています。


