思考は「不幸だという思いは不快だ」などと供述しており(2/2)|vol.152

願望実現

人は良い現実を体験したときに「良い現実を体験した」とは言わないし、悪い現実を体験したときに「悪い現実を体験した」とも言いません。「いい思いをした」とか「いい思い出だ」と言うし、「嫌な思いをした」とか「嫌な思い出だ」と言います。なぜなら、「思い」に対して感情を与えると現実になることを知っているからです。

ある「思い」に良い感情を与えれば「いい思い」になるし、逆もまた然りです。現実というものが「思い」によって出来ていること、そして「思い」に良し悪しの感情が伴うと現実となることを知っているのです。

「良い出来事」と「いい思い」は同じものです。「いい思い」のことを「いい現実」と捉えていると言っていいでしょう。つまりは「思い」が全てなのです。現実とは「思い」のことなのです。

「現実」のレシピは既に述べた通りです。自然発生的に湧き出る「思い」に「感情」が伴えば、それが「現実」として完成するのです。そして感情は二つのパターンしかなく、愛情か嫌悪のどちらかが表出します。

「不幸だ」という思いが湧き出たとしましょう。その思いに嫌悪の感情を伴わせるとどうなるでしょうか。「不幸だ」は「嫌な思い」として現実に刻まれることになります。「不幸だ」それは「嫌なことだ」という現実の完成です。

では「不幸だ」という思いに対して何か出来ることはあるでしょうか。まず「不幸だ」という思いを嫌悪している自分に気付くことです。不幸を嫌悪することなど当たり前だと思ってはいけません。まずそれを認めることが大切なのです。より正確に把握しておきましょう。この場合は「不幸だという思いを不快に感じている自分がいる」です。

勘違いしてはなりません。思考の大騒ぎに踊らされてはいけません。あなたは単に「不幸だという思いは不快だ」と言っているだけです。言っているだけなのですが、それを現実としていることもまた確かです。

単なる「思い」を「現実」と錯覚したところから全ては始まったのです。ただの「思い」に愛情を感じたり、嫌悪を感じたりしているうちに、「思い」にリアリティーが加わり、「これが現実」と感じるようになったのです。

現実とは思いであり、思いとは現実です。境目がないというより同一のものです。感情が伴うことで思いという無形の状態のままに留まったり、現実という有形の状態に固定されたりするのです。

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