組み合わされる単語によって、「自分」は現れたり消えたりします。貧乏にはなれるけれどお金持ちにはなれなかったり、不幸せにはなれるけれど幸せにはなれなかったりします。ということは、「幸せな自分」を認識する際に邪魔をする何かがあるということです。
それを回避するには、「自分」に柔軟性を持たせてあらゆる単語との組み合わせを許容するのが一つ、もう一つは「自分」という単語自体を消してしまうことです。理屈自体は非常に単純で、「自分」という主語との組み合わせに違和感を感じて認識が行われないのなら、どんな単語にも合わせられる柔軟性を持たせるか、主語そのものを消すかという話です。
理屈はわかっても、果たしてそんなことが可能なのかという疑問が出るでしょう。それに、そんな言葉遊びをしたところで現実が変化しなかったら意味がないとも思うでしょう。しかし、そもそも現実というのは自分の中で認識されたものの状態を説明しているのです。
以前に話したことですが、認識とは目の前の映像が自分の中で言語化されることです。ならば試す価値はあるのではないでしょうか。早速一つ実験をしてみましょう。今からあなたの口癖は「幸せだ」にします。あえて「誰が」という主語は付けません。単に「幸せだ」です。
誰がという概念を外せば、否定のしようがなくなります。自分かもしれないし、世界中の誰かかもしれないし、近所の野良猫かもしれません。対象を定めなければ嘘にはならないのです。逆に言うと、対象を絞って「自分」や「あの人」にすると嘘になったり本当になったりするのだから面白いものです。
「幸せだ」何がでしょう?対象を絞っていないのですから、その範囲は全体に及びます。強いて例えるなら自分以外のなにか、あるいは自分以外の全てが幸せだということにしておきましょうか。それでは意味がないとあなたは言うかもしれませんが、では仮にあなた以外が全て幸せだとして、あなただけが不幸であることは可能でしょうか。
それがどんな状況かわかるでしょうか。自分以外は全て幸せだということは、あなたは幸せに囲まれているということになります。つまりは幸せな世界に身を置いている不幸せな自分ということになります。
残念ながらあなた自身は幸せではないようですが、あなたが幸せに囲まれているのもまた確かなようです。自分以外が自分に対して心地いい振る舞いをすることがあなたの理想であるならば、全てが幸せであることはあなたの願望と一致するのではないでしょうか。
逆に、自分だけが幸せで自分以外は全て不幸だとしたら、あなたは幸せと言えるのでしょうか。もしそうなったら、あなたは不幸に囲まれていることになります。さて、不幸に囲まれているあなたは幸せといえるでしょうか。


