もしあなたが今の現実に辟易としているとしても、その現実もやはりあなたが掴んだ認識です。その現実が嫌ならば、今この瞬間に違う認識を掴めばいいのです。あなたはもう悩むことはできません。不幸であることも貧乏であることも愛されないこともモテないこともできなくなります。なぜなら、瞬時に認識を掴んでそれを現実とするからです。わざわざ嫌な認識を掴む必要はないでしょう。
あなたがそう認識したら、誰にも否定することはできません。「そんなにうまくはいかないよ」と否定的な言葉を述べるお節介な他人もいるかもしれませんが、その言葉をあなたが受け入れなければいいだけのことです。
では、こんな実験をしてみましょう。思い浮かぶこと全てに対して「それも認識」と言い続けてみます。「つまらないな」「それも認識」、「苦しい」「それも認識」、「困ったな」「それも認識」、「あの人嫌い」「それも認識」。
ふと口をついて出るような言葉たちに対して「それも認識」とあえて確認すると、自分が常日頃からほとんど無意識に認識をしている、言い方を変えれば現実を創っていることがわかるのではないでしょうか。
幸せになりたければ、幸せであればいいのです。不幸せに付け入る隙を与えずに。お金持ちになりたければ、お金持ちであればいいのです。貧乏に付け入る隙を与えずに。この瞬間も、次の瞬間も、そのまた次の瞬間も、そうであり続ければいいのです。あなたが別のものに置き換えない限り、あなたはそれそのものです。
しかしここで、興味深い現象が起こります。「幸せ」「豊か」「お金持ち」「自由」そういった言葉を単語として呟くだけなら特に違和感はないでしょう。ところが「自分は」という主語を付けると、途端に否定的な反応が出ることがあります。「自分は幸せ…とはいえないな」「自分はお金持ち…だとは思えないよ」といった具合です。
要するに「自分は」という主語が加わった途端に、その単語は現実味が失われて認識ができなくなってしまうのです。そして認識ができないということは、「幸せな自分」は存在しないことになってしまいます。例えば大金持ちの有名人を一人思い浮かべてください。その人物Aさんを思い浮かべて「Aさんはお金持ちだ」と言っても何の違和感も感じないはずです。なぜなら、あなたはその人物を最初からお金持ちと認識しているからです。
「自分」と組み合わされたときだけ即座に否定されて現実的ではないとされてしまうという意味で、「自分」という主語は柔軟性を欠いているといえます。例えばの話ですが、「自分」は「不幸せ」や「貧乏」と組み合わされると認識できますが、「幸せ」や「お金持ち」と組み合わされるとなんだかしっくり来なくて認識できない、つまりは現実ではないと見なされることはよくあります。


