あなたは映像を言語化し、それを現実として扱っています。最初に不快な現実を認識すると、当然その後に出てくる思考は不快なものばかりとなり、あなたはその不快な思考と闘うことになります。不快な思考が堂々巡りして、思い出す度に嫌な気分になるのだからたまったものではありません。
不快な思考が堂々巡りすることは、あなたの中で悩みとして受け取られます。この悩みを終わらせるためには、どうすればいいだろうと解決法を求めてあなたはまた考えるでしょう。この不快な思考の堂々巡りを終わらせたいと願うこと。それが願望です。
悩みを終わらせるためには、「それ」に対する認識が変わる必要があります。あるものに対する不快な認識があるから、それを源泉とした不快な思考が溢れてきます。不快な思考を止めるためには、そもそもの発端である不快な認識が改められればいいわけです。
あなたは意識的か無意識的かはわかりませんが、そのことに気付いています。例えば「あの人は私のことが嫌いだ」は不快な認識でしょう。その後に出てくる思考は、その認識をベースにするので、当然「あの人は私のことが嫌いだ」に関連した思考が溢れてくることになります。
それが「あの人は私のことが好きだ」という風に認識が変われば、今度は「あの人は私のことが好きだ」をベースとした思考ばかりとなるはずです。そうなれば、不快な気分を味わわなくて済みます。「それ」に対する認識が変われば、自ずと思考も変わることをあなたはわかっているのです。
そこで、認識を改めるきっかけとなる何かが欲しくなります。それは、今とは違った認識ができるに値する証拠映像です。そして、その証拠映像を見たいという思いが願望なのです。ですから願望は叶わなければならないし、必死になってしまいます。なぜなら、それがないと認識を変えられないから、というわけです。
それまでの認識とは違う証拠映像を見なければ新たな認識はできない、それが思考の主張です。要するに認識を変えるには、それが実現した場面を目撃すること、つまりは願望の実現が必要だというわけです。認識を変えるための根拠となる映像を見たい。あなたの願望への渇望はここから生まれています。
これがどれほど回りくどく、不確かなことをしようとしているかがわかるでしょうか。最終目標は今の認識を変えることなのですが、そのためにやらなければいけないことが多すぎるのです。認識を直接AからBへと変えられれば済む話なのですが、「そのためにはああしてこうしてこうならないと…」と思考が邪魔をしています。


