【認識の変更】別の領域ってどこにあるの?ここだけの話、こっそり日常の中に紛れ込んでいますよ!

復刻記事

※この記事は旧サイトに掲載されていた記事の復刻版です。

「この現実を創っているのはあなたです」
引き寄せの法則や願望実現でよく聞かれる概念ですが、この言葉を聞いてあなたはどう思うでしょうか?なんか納得いかない…とか、そんなのは言いがかりだ!なんて思ったことはありませんか?

現実は固定されたものではない

「あなたの現実はあなたが創っています」
その主張にあなたはこう答えます。
「嘘だ!こんなヒドイ現実を自分が創るわけない!」
望んでいることとは真逆に見えるような現実を目の当たりにしているあなたは、「それはあなたのせいです」と言われて納得がいきません。

しかし、既にあなたは大きな矛盾を抱えてしまっています。
それが「嘘だ!こんなヒドイ現実を自分が創るわけない!」という答えに出ています。
あなたは自分の現実を「ヒドイ現実」と解釈しているのです。

本当は「ヒドイ現実」が実在しているわけではありませんし、見えているわけでもありません。現実というものは手で掴めるものではありませんから、僕らは現実というものを「解釈する」しかないのです。

その解釈の仕方によって現実などいくらでも変わります。「現実味がある」とか、逆に「夢のようで現実味が無い」という言い方からもわかる通り、現実とは固定されて動かないものではなく変幻自在なものなのです。

僕らは全てを見ずに現実を判断している

人は現実をこのように感じています。「自分の身に起きている」「この身に降りかかった」。まるで外的な何かが自分に影響を及ぼしているかのようです。人は自分の身に起きていることや、自分の身の周りで起きていることに過剰に反応しますが、この自分の身にという感じ方からわかるように、僕らはこの身体に起こったことを現実と解釈しています。

僕らは物質の世界で生きていますから、物体として存在するものに焦点が当たるのは仕方のないことです。でもちょっと視野を広げて目に見えないものも見てみるようにしましょう。

例えば、僕らの目に映るものには全て重力が働いていますね。だから物は床に置いてあったり、地面に落ちていたりします。物と重力は同時に存在していますが、物には注目しても重力に注目することはないでしょう。普段、目に見えないものには意識が置かれていないのです。

僕らの「この身」は案外あてにならない

僕らの身体は現実を五感で「体感」することに特化しています。文字通り「体で感じる」です。

自分はこの世界の何十億もの人間の一人として存在し、この世界を体感し、考え、喜怒哀楽を感じる存在。全てがこの”自分”というちっぽけな肉体で完結していると信じています。
“この身”に焦点が当たりすぎているんです。

五感や脳の判断はいい加減なものです。それは錯視の画像や動画、あるいはトリックアートなどを見て簡単に騙されてしまうことからもわかるでしょう。

そんな頼りにならない五感を持ったこの身体を自分と信じ切っているので、五感で感じ取れないものは存在しないというレッテルを貼ってしまうのです。

いい気分と悪い気分の作られ方

感情は様々な分類がありますが、実際のところは良い感情と悪い感情の二種類しかありません。わかりやすく言えばいい気分か嫌な気分かです。

嫌な気分は思考で作られます。不安、怒り、憎しみ、恐怖、焦りなどの嫌な気分には必ず思考が差し挟まっています。例外はありません。
一方のいい気分も思考で作られます。そのときは悪い気分になっても、後から「あのときはあえて厳しく言ってくれたんだな」なんていう風に見方が変わることがあるでしょう。それは思考によっていい気分を作り出したからです。

そして、いい気分にはもう1つあります。それは思考を介さずにダイレクトに感じ取るいい気分です。子犬や子猫を抱っこしたとき。家に帰ってきて「あー疲れたー」って言いながらソファーに寝っ転がるとき。お風呂に入って思わず「あー」って声が出たとき。大好きな人にギュッと抱きしめられたとき。自分の子供を抱っこしたとき。サラサラと心地よい風が吹いてきて「気持ちいなー」っていうとき。

それは「ホッとした」と表現される一瞬のいい気分です。
でもこのダイレクトに感じる一瞬のいい気分こそ、目に見えないものからの贈り物です。

ダイレクトないい気分は別の領域からの贈り物

あなたは、いい気分をダイレクトに贈ってくれる存在と繋がっています。それは神とか愛とか意識とか宇宙とか別の領域とか色々な呼び方がされていますが呼び方はどうでもよくて、あなたの「この身」は見えないものと繋がっていることを知ることが大切です。

引き寄せの法則や願望実現の話で用いられる「別の領域」という表現を聞くと「ここではない別の次元」に行かなければならないように感じてしまって、どうすればいいかわからなくなってしまったり、その領域を感じ取ろうと必死になったりするでしょう。

別の領域とは愛のある場所のことです。場所というよりも愛そのものと言った方がいいでしょう。先ほどの章で例に挙げたようにごく身近にあります。
あなたの身体はこの三次元の世界に置いてあるまま、別の領域と常に繋がっています。それはどこか特別な場所にあるのではなくて、さりげなく日常に紛れ込んでいます。「この身」は良いことが起こらないと良い気分にはなれないと頑なに信じているので見逃しているだけです。

フッと肩の力が抜けたとき。ホッと安らいだとき。普段うるさくおしゃべりをしている思考が一瞬だけクリアになったとき、あなたはその領域を垣間見ているのです。

錯覚に気付いて別の領域に浸る

愛は思考の影響を受けません。ダイレクトに感じ取れます。思考をスルー、あるいはエゴを突破できる唯一の存在が愛です。
物が重力の影響から逃れられないように、あなたは愛の影響から逃れることはできません。目には見えませんが重力は常に物と共にあり、愛は常にあなたと共にあります。
思考を通さないで感じるいい気分は、別の領域から愛がダイレクトに贈られたサインです。贈られたというより、その一部を見たという方が正確でしょうか。

あなたは酷い現実を見ているのでも創ったのでもありません。現実を「酷い」と錯覚しているだけです。ちょうどトリックアートに視覚が騙されるようなものです。

別の領域からの一瞬の贈り物を見てください。あなたは別の領域と繋がりっぱなしの使い放題なので、見逃したって大丈夫ですから肩の力を抜いてください。力んでいると「この身」が錯覚ばかり見てしまいますからね。

「ホッ」と肩を下げてみましょう。ほら、その一瞬が別の領域と繋がっている時間です。その瞬間をたくさん集めて、たくさん感じてください。現実への錯覚がどれだけバカバカしいかわかります。
この別の領域が、あなたが喜ぶ色々なプレゼントを用意して待っていることを知ってください。一瞬のいい気分という贈り物は、そのごく一部に過ぎません。

その点でいうと、映画「燃えよドラゴン」でのブルース・リーが言った有名なセリフは素晴らしいですね。
「考えるな、感じろ(Don’t think ,Feel!)」

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