※この記事は旧サイトに掲載されていた記事の復刻版です。
「普通そうだよね?」「こうするのが普通だよね?」
何かに納得していない様子が見て取れるこの言い方。
普通ってなんでしょうか。
そして、あなたの言う「普通」に根拠はありますか?
あなたの普通はあくまでもマイルール
人の価値観は千差万別です。
そして、全ての価値観が正しく、間違った価値観はありません。
そこには「違い」があるだけです。
あなたの普通や当たり前が、相手にとっても普通だとか世間の常識とは限りません。
あなたの普通は、あなたの価値観が決めた常識、言わばマイルールだからです。
マイルールの正しさを証明しようとしない
人が怒る理由はただ一つ「自分の思い通りにならなかったから」です。
簡単に言えば、あなたのマイルールに、相手が「反則」したときに起こります。
人は、自分の普通と他人の普通が違うことを理解しています。
シンプルに違うということだけを認識しておけばいいのですが、自分の「普通」に自信が無いので、もう一歩踏み込んで「どちらの普通が正しいか」を確かめたくなります。
「普通そうだよね?」「こうするのが普通だよね?」という冒頭の問いかけは、自分のマイルールが本当に「普通」かどうかを、第三者に確認してもらっているのです。
賛同してくれたら一安心。
自分のマイルールが正しいことの証拠が一つ出来上がるからです。
でも、ちょっと待ってください。
あなたのマイルールの正しさを、わざわざ第三者に確認する必要はありません。
正しいに決まっています。
それが、世間一般的に多数派か、少数派かだけのことです。
自分の周りにいる数人の人たちに、あなたの普通が世間の常識であると認めてもらったところで、どんな意味があるでしょう。
世界には何十億人もの人が生きているんですよ?
全員が賛同するルールは存在しない
常識とは「より多くの人が正しいと思っていること」です。
けれど、多数派が常に正しいわけでも、少数派が常に間違いなわけでもありません。
バラバラの意見を一つに集約する場面を考えてください。
学級会や職場の会議、わかりやすいところだと選挙もそうです。
そのときに取られる手段はなんですか?
そう、多数決です。
このとき、少数派の意見は間違いだったのでしょうか?
そんなことはありませんね。
満場一致ならメデタシメデタシですが、人が集まればそんなことはまずありません。
全員が納得する方法がないので、多数決という方法で納得してもらうしかないのです。
多数決は平等だからそうしているのではありません。
バラバラの意見を一つにするためには、それぐらいしか方法が無いから多数決にしているのです。
どっちのルールが正しいかなんてどうでもいいこと!
スポーツには、その競技に合わせたルールがあります。
競技の数だけ、違うルールがあるのです。
同じように、あなたのマイルールと他人のマイルールは違います。
人の数だけ、その人が決めたマイルールがあるのです。
野球のルールと、サーカーのルール。
どちらが「普通」ですか?
どちらが正しいですか?
比べても意味はありませんよね。
あなたと他人のマイルールも、比べることに意味はありません。
普通の人生ってなんだろう?
ではちょっと話を変えて「普通のお店」「普通の人」「普通の人生」という場合はどうでしょう?
ここで言う「普通」は「平均的な」という意味になります。
「普通の人生は嫌だ」
はい、また出ましたよ「普通」が。
じゃあ普通の人生ってどんなものでしょうか?
「どこそこ市に住んでいる太郎さんは、普通の人生を送っています」
「なんちゃら市に住んでいる花子さんは、普通の人です」
太郎さんの人生は、良いことが普通の数だけあって、悪いことが普通の数だけあって、普通の身長で、普通の体重で、普通の顔で、普通の年収で、普通の学歴で、普通の…普通の…普通の…。
僕は、そんな太郎さんや花子さんに会ったことがありません。
普通なんて基準はそもそも存在しない!
何をもって普通と考えれば良いのでしょうか?
全人類の平均点を出すんですか?
やはり、これも自分がマイルールで決めるしかないのです。
あなたが自分の人生を普通だと思えば普通に。
特別だと思えば特別になります。
「普通」なんていう基準はそもそも存在しません。
ありもしない「普通」に振り回されてはいけないのです。
「普通じゃない」
人と違うことに不安を覚える気持ちもわかります。
けれど、歴史に名を残した偉人たちは「普通」や「常識」を打ち破った人たちです。
そろそろ「普通」やめませんか?
【普通というものは存在しない】