思いは止めることができません。そんな思いに異を唱えると苦しくなります。一日中様々な思いが頭を駆け巡るでしょう。幸せな経験をいい思いとか、不幸せな経験を嫌な思いというように、思いというのは結局、現実そのものなのです。どんな思いが溢れるかを決めることはできません。僕らは思いに対して、リアクションすることしかできないのです。
僕らはそんな思いに異を唱えます。それは現実に異を唱えることと同じです。「不幸せだ」という思いに対して「それは嫌だ」と異を唱える。逆に「幸せだ」という思いに対しても「とてもそうは見えない」と異を唱える。どちらに対しても異を唱えるなら、気に食わない現実になるのも無理はないでしょう。
思いそのものよりも、思いに対して異を唱えることが苦しみなのです。なぜなら、思いとは現実そのものであり、思いに異を唱えることは現実に異を唱えることと同じだからです。要するに「気に食わない現実」があることを認めることになるのです。
勝手に思いが溢れてくるのは仕方がありません。思いが出ないようにしようとするのは、風を止ませようとするのと同じで不可能です。あなたが異を唱えようと、思いを止めようとしようと、お構いなしに思いは溢れます。思考を止めるといいますが、「思」は止めることはできません。止められるのは「考」です。
多くの人が現実を変えたがります。現実を変えることでいい思いをしたいからです。願望を実現したいのは、現実を変えたいからであり、現実を変えたいのは思いを変えたいからなのです。
願望を実現して現実を変えたいという自分を省みてください。そもそも現実を変えたいのは、「いい思いをしたい」だったり、「嫌な思いをしたくない」だったりするでしょう。しかし現実を変えて、そうした思いを変えることはできないのです。なぜなら、思いと現実は同じものだからです。
現実を変えて思いを変えるのが願望実現の目的なのです。ところが、思いと現実は同じものなら話は変わってくるでしょう。願望実現を表現すれば、願望を実現することによって現実を変えて、現実が変わることによって思いが変わる、ということです。しかし、現実と思いが同じものなら「思いを変えて思いを変える」ということになるのです。

