思考とは「思い」について「考える」こと(1/3)|vol,142

願望実現

日々刻々と様々な思いが溢れます。思いが溢れた時点では承認も否認もされておらず、率直に「そう思っただけ」です。僕らは「思考」と一括りにしていますが、「思う」と「考える」は別個のものです。「思う」は自分の意思ではなく、「考える」は自分の意志です。

思いは勝手に湧いてきます。どんな思いが湧くかはコントロールできません。しかし、どんな思いについて考えるかはコントロールできます。思いは事実ではなく、溢れた時点では推測です。その推測を考えることによって事実としたりしなかったりします。推測に対する承認あるいは否認が行われるのです。

ならば、溢れた「思い」について「考える」というジャッジをしなければいいのです。願望実現のポイントとして言われている、「起こったことについて判断しない」というのはそういうことです。何が起こったかというのは、あくまでも推測に過ぎないのです。

現実という映像を見て思いが溢れます。溢れた思いについて考えを加えます。思いは溢れたのであって考えて生み出されたわけではありません。溢れた思いをどう扱うかです。思考とは文字通り、思いについて考えることなのです。

瞑想によって思考を止めるという表現が散見されますが、思うは勝手に溢れてくるので止めることは至難の業です。止めることができるのは思いについて考えることなのです。思いに対する考えは、ケースバイケースで一定していません。承認したい思いもあれば、否認したい思いもあるでしょう。

承認したいけれど自信を持って承認できない、逆に否認したいけれど断固とした否認ができない、そうしたもどかしさは、しばしば苦しみの原因となります。無理矢理承認しようとしたり、無理矢理否認しようとしてもうまくいきません。

「そう思いたいけど思えない」とか「そうは思いたくないけど否定できない」といった思いが溢れるからです。湧いてきた思いに対して、その都度承認か否認かが一定しないから苦しむのです。「承認せざるを得ない」「否認せざるを得ない」のが苦しいのです。そこで、如何なる思いに対しても承認も否認も行わないことは有力な対策となります。

具体的に言えば、全てに対して「わからない」と答えてみるのです。そもそも「わからない」というリアクションすらしないことが可能ならそれでも構いません。勝手に溢れる思いに全て「わからない」と答えることは、現実を判断しない入口となります。

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