できないというブレーキ(4/4)|vol.103

願望実現

出来ないという思考が浮かぶこと自体は仕方がありません。そのときにその思考をどうするかです。その思考がなければ、考えるまでもなく出来るのです。「出来ない」という思考が浮かんだときには、「それは自分には決められない」「わからない」と答えるといいでしょう。その答えを自分以外に手渡すのです。

何かしたいことがあるときに「出来ない」という思考が生まれると願望となりますが、出来ることの場合は「出来る」という思考が生まれるというより、出来る出来ないの判断をしていません。

例えば、歯を磨こうとします。そのときに「出来ない」という思考は生まれません。かといって「出来る」という思考が生まれるわけでもありません。つまり、出来るとも出来ないとも判断していないのです。強いて言えば「する」と判断しただけです。

この状態こそ出来る出来ないを自分で判断していない、自分が判断することではない状態です。自分が結果に関与していないことが腑に落ちていると「したいこと」は単純に「する」ことが出来るのです。自分が判断しているときだけ、したいことがストップするとも言えます。

「無理だ」「難しい」「出来ない」「どうやって」。それ自体が「する」にストップを掛けている原因です。願望とは叶えたいことではなく、「出来ない」と判断して却下した「したいこと」だったのです。

苦悩があるから願望が生まれたのではなく、願望が生まれたから苦悩するのです。願望はあくまでも「したいこと」に対して「出来ない」と認識した証拠に過ぎません。夢でも希望でもポジティブなものでもなく、「したいことをする」のを妨げるただのブレーキだったのです。

したいことをする。なりない自分になる。ならば方法はシンプルに「する」「なる」です。それ以外に何があるというのでしょう。「出来ない」「なれない」は、あなたが勝手に決めたことなのです。

世界中のどこを探しても「自分には出来ない」「自分にはなれない」と決めることが出来るのは自分しかいません。例えそれが「人にそう言われたから」とか「常識的に考えて」であったとしても、それを最終的に事実としたのはあなたです。他人にそう言われたとしても、あなたにはそれを流すという選択肢もあるのですから。

本来、出来る出来ないということがあなたには判断できないのは既に語った通りです。なぜなら、全てが人生の途中経過だからです。途中経過を見て出来る出来ないなど判断しようがないでしょう。結末を見ていないのだからわからないのです。人生は肉体が朽ちるまで全ての瞬間が途中経過なのです。

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