一見ポジティブに見えて実はネガティブ、これには気を付けなければなりません。エゴはポジティブな振りをしてネガティブな思考を採用しようとすることがよくあるのです。「○○になりたい」は全て「今は○○ではない」の確認作業ともいえます。ポジティブに見えて実はネガティブなのです。
純粋に願える人なら全く問題ないのですが、そこに「どうやって」「どうしたら」という思考が発生する人は、素直に願う方法は適しません。願いとは逆の思考、この例で言うと「困窮している」を採用しない方法の方が合っています。
願望を手放すという表現を聞いたことがある人もいるでしょう。もし願望が「裕福になりたい」であれば「今は困窮している」を手放すということです。素直に願えない人は願望を捨てた方がいいというのは、そうしたカラクリがあったのです。聞けばなるほど、単純な話なのです。
「裕福になりたい」という願望を捨てるのは、「今は困窮している」という思考を捨てるためです。そして、「今は困窮している」を捨ててそこに残るものは何かという話です。困窮している人にとって「裕福だ」というのは虚実にしか聞こえないでしょう。
このとき困窮が真実で裕福が虚実と認識されます。平たく言えば裕福だというのは妄想と受け取られます。素直に願える人というのは、真実と虚実をすんなりとひっくり返せる人のことをいいますが、多くの場合はそう簡単にひっくり返せないものです。
真実か虚実かの基準に慣れきってしまっているため、裕福という思考が虚実にしか見えないからです。真実と虚実を簡単にひっくり返せない場合は、その虚実が真実となるように考えます。要するに願望として持つことになるのです。そしてここでも慣れ親しんだ基準が発生します。その願望に対して、可能か不可能かという判断基準です。
裕福か困窮かという判断に使われた真実か虚実かの基準。それによって行われた困窮が真実で裕福が虚実だという判断。それはまだ致し方ないと言えるかもしれません。繰り返し真実として採用してきたので簡単にひっくり返せない気持ちもわかります。
しかし、裕福になることが可能か不可能かという基準で判断するのはいかがなものでしょうか。仮に不可能だとすると、そこに根拠はあるのでしょうか。なんとなくフィーリングで「無理そうだ」とか「難しそうだ」と言っているだけではないのではないでしょうか。


