「困窮している」という思考は考えただけで気が滅入る、だからこれからは裕福だと思い込もう。これもまた大きな罠です。僕は「困窮している」という思考は気分がよくないから、その思考は持っている必要がないと言っているだけです。裕福と思い込みなさいとは言っていません。
前話「幸せのグラデーション」の終盤で述べた通り、人生も世界も現実も、存在する全てのものには境界線がありません。グラデーションであり、国境のようにくっきりと裕福と困窮が定まってはいないのです。困窮しているという思考を採用しないならば、裕福と思い込まなければならないというのは、白黒をハッキリつけようとする基準から生まれています。
つまりは真実か虚実かの基準から抜け出せていないのです。今まさに困窮している人は、困窮が真実で裕福が虚実だと判断しているということになります。困窮という真実を採用しないならば、裕福という虚実を採用しなければならないと思ってしまうのです。
そもそも、真実と虚実も他のものと同様に境界線は存在しません。そうした白黒つけようとする基準は確実に本質を見誤ります。その基準をやめ、単に「困窮している」という思考が何の役にも立たない不必要なものだと認識すればいいのです。それが嘘臭く聞こえる人は、あえて「裕福だ」と唱える必要もありません。「困窮している」を採用しなかったら何が残るかを考えてみれば自ずと理由はわかるでしょう。
「残り物には福がある」とはよく言ったものです。いつも感心させられるのは、先人たちが残した名言や格言、あるいは諺といったものの中には、極めてシンプルに本質を伝えている言葉が散りばめられていることです。「困窮している」という思考をなくしたら後には何が残るでしょうか。それは「困窮している」がない状態が残ると言えないでしょうか。
「困窮している」という思考をあなたは欲していません。単純に言えば「困窮している」が消えた状態が欲しいのです。それは理解できるでしょう。裕福な状態になりたいということと、困窮している状態をなくしたいというのは同じことを言っています。裕福な状態がイメージしにくいなら、無理にイメージする必要はありません。あなたはただ染み付いた困窮の思考を手放していけばいいのです。
では、「裕福になりたい」その思考は必要でしょうか。この思考は通常、夢や願望と呼ばれます。一見するとモチベーションにも繋がりそうだし、希望を持って生きようとするポジティブな印象を受けるかもしれません。しかしその実、「裕福になりたい」は「今は裕福ではない」或いは「今は困窮している」という宣言でもあります。


