もしあなたの思考の真偽を公平かつ完璧な第三者が行うなら、正しい真偽を知ることもできるかもしれません。しかしそれは、恐らく神の領域となるでしょう。つまり人間には正確な真偽をジャッジすることはできないということです。
人は普段、フィーリングによってジャッジを下しています。「そうだな」とか「それはないだろう」といった具合です。身の丈に合ったものは「そうだな」というし、身の丈に合わない夢物語には「それはないだろう」といいます。そうして事実と空想が分けられるのですが、フィーリングに任せておくと、いつも同じようなジャッジしか下さなくなります。よって似たような現実が繰り返されます。
フィーリングではなく、なにか新しいジャッジの基準を定めたほうが良さそうです。とはいえ、そのジャッジの基準は難しいものではありません。ジャッジの基準を「真偽」ではなく「役に立つか立たないか」にするのです。「嘘か本当か」はどうでもいいのです。あくまでも「その考えが役に立つか立たないか」です。
例えば「お金に困っていて辛い」という思考が浮かんだとします。それに対して本当か嘘か、そこから抜け出せるか否かといった基準で判断しないようにします。新しい基準は、その考えが役に立つか立たないかです。
「お金に困っていて辛い」その考えはあなたに何をもたらすでしょう。そう考えたらお金が入ってくるのであれば、いくらでも考えればいいのですが、考えたところでそこから救われないのなら、それは役に立たない考えです。逆に、そう考えたところで気が滅入るだけで何の役にも立ちそうにありません。ならばその思考は採用すべきではないということです。
この基準の素晴らしいところは真偽を問わないことです。例えばお金に困っている人に「私はお金持ちだ」という思考が浮かんだとします。真偽を基準にすると恐らく「そんなことはない」と一蹴されてしまうでしょう。
或いは「お金持ちになる」という思考の場合、できるかできないかを基準にすると「どうやって?」とか「どうすればなれるんだろう?」「難しそうだ」「無理だ」と却下される可能性が高くなります。そのような基準で判断することをやめるのです。
どんな思考であっても、あなたが「イエス」と決めたらそれが真実であり現実です。思考に「イエス」とお墨付きを与えること、それが認識です。どのような基準で「イエス」と言うかは人それぞれだし、ケースバイケースでもあります。


