映像の時点では現実は確定しておらず、映像を言語化することによって初めて現実が確定します。極端な話、見えている映像とは無関係に真逆の言語化をしても構いません。映像は悲惨に見えるのに「幸せだ」と言語化しても意味がない、あなたはそう言うかもしれません。けれど、映像とは無関係な言語化をすることは、あなたが常日頃から行っていることでもあります。
例えば、あなたがお風呂の中やベッドの中でぼんやりとしているとき、知らず知らずのうちに映像の言語化を行っていることがよくあります。ふと思い出したその映像は、あなたにとって好ましい場面もあれば嫌な場面もあるでしょう。
それは最近あったことの映像かもしれないし、ずっと昔の古い映像かもしれません。いずれにせよ、思い出したその映像がどんな意味を持っているか、あなたはその映像を思い出しながら言語化することによって確定します。
それは誰かに挨拶を無視された場面かもしれません。会社から解雇を通告された場面かもしれません。何か大きな失敗をしたときの場面かもしれません。とにかくあなたは、それがどんな場面か、それが何を意味しているのかを言語化します。
さて、僕が先ほど言ったことを覚えているでしょうか。あなたはお風呂の中やベッドの中で、そうした映像の言語化を行っているのです。自分一人、静かな場所に身を置いているときの方がそれが起こりやすいでしょう。
このときあなたは実際に嫌な場面を見ているわけではありません。実際に見えているのはお風呂の壁だったり、寝室の天井であったりします。実際に見えている映像とは全く無関係な場面や事柄を頭の中だけで再生しては言語化して現実を確定させているということになります。
願望が叶ったという映像をまだ見ていないのに、それを頭の中だけで事実のように扱っても虚しいとあなたは言うかもしれません。しかし、あなたが常日頃から行っていることと何が違うというのでしょう。お風呂の壁や寝室の天井を見ながら無関係な場面を想起して、それを現実として確定させていくことと何が違うというのでしょうか。やっていることは同じなのです。
事実ではないことを事実として扱う。いま目にしていない場面を現実として扱う。むしろ、あなたはそれが得意なのではないでしょうか。ならば自分の好ましい現実を確定させるために利用すればいいでしょう。
あなたはいま見ている映像とは無関係な現実を常日頃から作っているのですから、映像を無視した新たな現実を創ることは難しくないということです。乱暴な言い方をすれば、あなたには妄想と捉えられるようなことであろうと、ビジョンさえあればそれを言語化することで現実に昇華させる能力があるのです。


