あれが起こったこれが起こったということは、あくまでも言語化するとそうなるというだけで、それが正確かどうかは誰にもわかりません。認識とは見聞きしたものの意味を、思考が言語化することであり、現実とは認識の結果のことなのです。
思考は全て言語によって行われます。一日中、脈絡のない無数の言葉が頭の中を飛び交うでしょう。それが思考です。思考とは結局、言語であり言葉であり文言なのです。そして、それ以上の意味はありません。
現実とは見聞きしたもの、あなたの目の前にあるリアルな映像がどんな意味を持っているかを言語化したものです。なにが起こっているかを把握するには言語化するしかないのですが、正確に言語化しているというより無理矢理言語化していると言った方がいいような代物です。
現実というものを言葉で表そうとすること自体が、ある意味無謀なことといえます。陳腐な言葉で表し切れるはずがないのです。しかし、人間はそれを表そうとします。そしてそれが無謀なことであり、ほとんど意味をなさないことにも気付かずに言語化されたものを信じ切ってしまいます。
あなたが見ているもの、聞いていること、体感していることは現実ではなく、体感した時点では単なる映像に過ぎません。その映像を言語化して、意味のあるものとして扱うことが認識です。そして認識がされた映像のことを僕らは現実と呼んでいます。つまり、体感した映像が言語化されたものが現実であるということです。
通常は映像のことを現実と錯覚していますが、厳密には映像が言語化された時点で現実が成立します。あなたは現実と闘っているのではありません。恐らく多くの人が映像のことを現実として扱っていますが、目撃した時点では現実としてはまだ成立していないのです。
あなたの問題は映像の中にはなく、映像の意味が言語化されたときに発生したのです。端的に言えば、あなたは映像と闘っているというより、言語化される際の自分の中の言葉と闘っているのです。つまり、闘っている相手は外側の世界ではなく、あなたの内側にある思考です。
思考と闘ってもまず勝ち目はありません。思考で思考を黙らせることはできないのです。かといって思考は無くなりもせず、放っておいても次々と湧いてきます。ではどうするかというと、思考と距離を取って、映像と思考を切り離すことです。映像の意味を思考で理解しなければならないという思い込みを捨てて、第三者のような目線で思考を眺めてみることです。


