人でもお金でも物でも生き物でも、あなたは「それ」に対して「そうとしか見えない」状態になっているでしょう。それもそのはずで、あなたは無意識に自分が色を塗っているとは気付かずに塗装済みの状態を目にして、その状態が当たり前と思っています。あなたは塗装済みの状態を見て、素直な判断をしているだけです。黒いものを見て「黒い」と言っているのと同じで、疑うことは難しいのです。あなたの目には黒にしか見えないし、そして実際に黒いのでしょう。
幸せに定義はありません。こうなったら幸せ、ああなったら幸せ、或いは逆にこうでないから不幸、ああでないから不幸といった代物ではありません。目に映る全てのものに自分なりの色を塗っているように、幸せに対しても自分なりの色を塗っています。これがあなただけに通用する幸せの定義です。その定義から外れた状態でいるうちは幸せとは認識しないというわけです。
あなたが幸せに対して塗っている色はステレオタイプなものかもしれないし、独自の個性的な色かもしれません。いずれにしても様々な色が塗り重ねられたその作品が美しく見えないうちは、あなたは幸せを認めないでしょう。
じっと土の中で待つ。けれどもなかなか芽が出ない。日の目を見るときはくるのかと不安になります。水をあげる。水をあげる。それでも芽は出てきません。本当に種が埋まっているのかどうかさえ疑わしくなってきます。掘り起こして確かめてみようかとさえ考えますが、それでもそれをグッと我慢してまた水をあげる。水をあげる。そうして信じて水をあげ続けた人が日の目を見ることができます。
芽が出るのか、どんな花が咲くのか、どんな果実がなるのか。そもそも、種は植えられているのか。芽が出るまでは半信半疑ですし、芽が出ても花が咲くのか不安にもなるし、花が咲いても果実は実るのか、果実が実ってもそれは食べられるのか、食べられたとしてもそれは甘いのか。願望が実現するまでには様々な不安があるでしょう。
そもそも種が植えられているのかどうかさえわかりません。もし種が植えられていないなら、水をあげ続けてもただ地面を濡らしているだけです。もしそうなら、いくら愛情を注いで水をあげたところで芽が出るはずがありません。
このまま水をあげ続けて果たして芽は出るのだろうか。あなたは心配になるかもしれません。でも心配はいりません。あなたの中に願望が芽生えたことそれ自体が種が植えられている証なのです。