お金自体は無機質なものでしょう。金属片であり紙であり数字です。お金は思考しないし、あなたを困らせようと意図することもありません。それを魔物のようなイメージに仕立て上げているのは他ならぬあなたです。
意外に感じるかもしれませんが、あなたは本当はお金を恨んでいないし、その人のことを恨んでもいないということなのです。罪を憎んで人を憎まずとはよく言ったものです。そういった意味では非常に的を射た格言といえるでしょう。
矛先がどうしても「それ」自体に向かってしまうので気付きにくいのですが、「それ」自体を嫌っているわけではないことに気付くといいのです。あなたはあくまでも、その人やお金に染み着いたイメージを嫌っているのであって、その人やお金自体は白でも黒でもありません。あなたの中で白や黒が塗られているに過ぎないのです。
元々何の色も着いていないその人やお金に対して、その振る舞いを見た結果何らかの色が塗られていきます。その人やお金が醜いのではなく、その人やお金に塗られた色が醜いのです。色が塗られる前の状態が「それ」の本質なのです。さながら塗装前のプラモデルや塗る前の塗り絵と同じようなもので、あなたが着色することによってリアルさが増すのです。
「それ」に塗られた色を見て、あなたは美しいと感じたり醜いと感じたりするでしょう。人や物に対するイメージは、表面に塗られた色によって判断されていると言っていいのです。その色はあなたが意図的に塗ることもあれば、無意識のうちに塗られていることもあります。けれど、その人に「かわいい」という色を塗ったのも「ムカつく」という色を塗ったのもあなたです。
塗装を落とすと「それ」は元々何の色も着いていないことに気付きます。万物が本来は無塗装の状態で存在しているのです。本質を見る、本質を見抜くとは、要するに無塗装の状態を見ることといえます。あなたによる着色がされていない状態を見ようとすることです。
自分が色を塗っていたことに気付かず、その色が気に入らないと不満を漏らしているのが人間です。このことにこれまで気付かなかったのはあなたが愚かだからではありません。ほとんど無意識かつ自動的に塗られてしまうから気付くことが難しいのです。
「あれ」や「あの人」が嫌いだというのは簡単です。なぜ「それ」が嫌いなのかを自分に問うと実に様々な理由を語るでしょう。その理由こそ「それ」に塗られた色なのです。理由ではなく「それそのもの」を真っ直ぐに見ることができるかどうかです。