自由な定義(2/4)|vol.29

願望実現

こんな例を出してみましょう。「勝手な振る舞いをすると人に嫌われる」「仕事をしなければお金は手に入らない」。さてどうでしょう。あなたはこの二つの事柄にイエスと答えるでしょうか、ノーと答えるでしょうか。

この質問はどちらが正解ということはありません。あなたはイエスかノーか、あるいはどちらでもないかという自分なりの答えを持っていることを確認したかったのです。あなたの答えがあなたの世界では真実となります。

シンプルな方法としては、自分にとって気分のいい考えにはイエスと言い、気分の悪い考えにはノーと言うことです。もしくはスルーでもいいでしょう。考えなど放っておいても無数に浮かんできます。いちいち相手にするのが面倒なら相手にしなければいいし、それがどうしたと突き放しても構わないのです。

先ほどの質問の答えがどんなものであっても構いません。何が正解で、何が真実かという話ではなく、あなたの世界ではその見方が正解であり真実であるというだけです。

例えば「いい大学に入らなければ人生が悲惨なものになる」という考えがあるとしましょう。これは恐らく賛否両論あるのではないでしょうか。何度も言いますが、正解はありません。正解は人それぞれとしか言いようがないのです。正しいと思う人は正しいと思えばいいし、間違いだと思う人は間違いだと思えばいいということです。

他人がどう言っているかとか、集計するとこちらが多数派だったとか、常識的に考えてこちらが正しいとか、そんなものはどうでもいいのです。あなたの世界ではあなたの決定が絶対なのですから。

一般に難解だと思われる質問もしてみましょう。非常に根本的でありながら、同時に難解な質問です。世界はどんな場所でしょう。現実はどんな仕組みなんでしょう。人間とはなんでしょう。人生の意味はなんでしょう。生きているとはどういうことでしょう。自分とはなんでしょう。これらの質問は答えられそうで答えられないのではないでしょうか。答えられたとしても自信をもって間違いないとは言い切れないのではないでしょうか。

「誰かがそう言った」「科学で証明されている」「その学説が主流である」「そう考えるのが自然だ」「常識的にそうだろう」。では、その科学だの、学説だの、常識だのというのは、間違いなく真実を語っているのでしょうか。そして、それを間違いなく真実だとしているあなたの根拠はなんでしょうか。

あなたが科学や学説や常識を信じているのなら、「これらは信頼できる」という考えにイエスと唱えているということになります。どこまで突き詰めていっても、自分のイエスとノーが最終的な見解であることには変わりないのです。

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