お金持ちになりたければ「お金持ちな自分」を好きになりましょう。モテたければ「モテる自分」を好きになりましょう。個別の願望はそうして叶えれば良いのですが、それは面倒だというなら自分を丸ごと好きになるといいのです。自分が丸ごとうまくいくようになるからです。
あなたは貧乏が嫌なのではありません。「貧乏な自分」が嫌いなのです。同様に、不幸が嫌なのではなく「不幸な自分」が嫌いなのです。モテないのが嫌なのではなく「モテない自分」が嫌いなのです。当たり前のように貧乏は嫌だ、不幸は嫌だ、モテないのは嫌だと感じていたと思いますが、全て「そんな自分が嫌だ」だったのです。
貧乏にしても、不幸にしても、モテないのにしても、その出来事自体に問題があるわけではありません。それを体験した自分が嫌なのです。体験せざるを得なかった自分と言った方が正確でしょうか。
「嫌だ」の矛先は出来事そのものに向いていたわけではなく、常に自分に向いていたのです。嫌な出来事そのものが嫌なのではなく、嫌な出来事を体験した自分の不甲斐なさが嫌なのです。信じられないかもしれませんが、貧乏や不幸であること自体は嫌なことではなかったというわけです。
貧乏や不幸にならざるを得ない、あるいはそのような境遇に置かれた自分が嫌なのです。その出来事にガッカリしたのではなく、その出来事を体験した自分にガッカリしたのです。なぜガッカリするのかというと、自分はそのような扱いを受ける程度の人間だと認識してしまうからです。
人に笑われた、人にバカにされた、人にからかわれた、人に軽んじられた。そんなとき、あなたは嫌な感じを受けるでしょう。その嫌な感じは、自分に対してそうした振る舞いをした人に向けられているのでしょうか。それとも、そのような扱いを受けた自分が情けないからなのでしょうか。その感情の矛先はどこに向いているのかを注視してみてください。
愛でもお金でも良好な人間関係でも何でもいいのですが、あなたが何かを渇望しているのなら、あなたは今現在のポジションに甘んじている自分のことが嫌いです。今の自分が嫌だから、進化した何者かになりたいというわけです。
それは愛されるに価する私かもしれません。大金を受け取るに価する私かもしれません。尊敬されるに価する私かもしれないし、丁重に扱われるに価する私かもしれません。
ここで言えることは、あなたがそれらを手にしていないのなら、自分で受け取るに価しないと決めているということです。だからこそ、受け取るに価する人間になろうとします。外見を整えるのも、能力を高めようとするのも、今の自分では受け取れないと思っていることの一端です。