どんな思考が浮かぶのかは予測できません。いつどんなどんな強さの風が、どんな方向から吹いてくるのか予測できないのと同じです。そして、あなたは風を起こすことができません。思考は風なのであって、あなたが起こしているのではないのです。あなたは風を見て、それがどんな風かを判断しているに過ぎません。
風をコントロールすることができないように、思考もコントロールすることはできません。風を止めることができないように、思考を止めることはできません。思考の発生に対して僕らができることは何もないのです。
では、人間は思考の奴隷でいるしかないのかというとそうではありません。思考の発生に対して無力なのは確かなのですが、発生した思考に対して取捨選択はできます。どんな思考が浮かぶかは選べなくても、浮かんできた思考を採用するか否かは選ぶことができるのです。
一日を通して実に様々な思考が浮かぶでしょう。そのうちどの思考を選択しても構いません。なぜなら、どのみち思考は憶測でしかないからです。この思考の選択を難しく考えなくても大丈夫です。単に、嫌な気分になる思考は採用しないと決め、気分のいい思考を採用すると決めるだけです。
実はこの思考の選択は、あなたもこれまで生きてきて何度も行ってきた身近なものです。例えば、誰かがあなたの気分を害するような振る舞いをしたとしましょう。嫌な考えがグルグルと渦巻きますが、そんなとき「そう考えることをやめて、こう考えるようにした」という経験はないでしょうか。それが思考の選択です。
「そんな夢みたいなこと言ってないで」「もっと現実的に考えなさい」。もしかすると、あなたも親や他人にそんな言葉を投げ掛けられたことがあるかもしれません。ところが、その肝心な現実は憶測と妄想の塊なのです。つまり、現実といわれているものも、妄想と片付けられることも、どちらも思考の仲間という点では変わりないのです。
現実と妄想の境目など存在しません。丸ごと全てが妄想であるといっていいでしょう。よって、どんな思考を選んだところで妄想であることには変わりありません。全てが妄想であるならば、気分のいい妄想を選べばいいのです。妄想は「そう思っているだけ」、現実は「確固として存在している」。そのように錯覚している人は非常に多いのですが、現実と妄想の境目は実に曖昧です。
では、なぜ妄想と現実がくっきり線引きされているように見えるのでしょう。全ては妄想なのですが、意識的無意識的を問わず、あなたが採用したものが現実となっているのです。現実は確固として存在し動かし難いものではありません。単に、あなたが数ある妄想の中から「これが現実」と定めたのです。丸ごと妄想なのですから、どれを選んでも所詮は妄想です。あなたが「これが現実だ」と定めたものが現実として扱われるというだけのことです。