自分以外のものを見るときに、あなたは予め決められたイメージに沿って見ています。「あの人はいい人」とか「アイツは嫌な奴」といったイメージは誰に対しても持っているでしょう。
こうしたイメージのことを前提と呼びます。あなたが「嫌な奴」を偶然見かけたり、ふと顔を思い出したりすると、いつも同じようなリアクションが起こるでしょう。「コイツは嫌な奴だ」という前提に沿って、その前提に相応しいリアクションが毎度のように現れます。
僕らは常に新鮮な瞬間を見ているのですが、記憶という名のあなたの歴史がそれを許しません。前提に沿った先入観ありきで新しい瞬間を見ていきます。そうして新しい瞬間を見ると、前提に基づいた「今」が構築されていきます。嫌な奴というのは、いつ見かけても、いつ思い出しても嫌な奴のままです。
よほどイメージが変わる出来事がない限りその前提はなかなか変わらないでしょう。他人に対して、物に対して、お金に対して。あなたは全てを固有の前提ありきで見ているわけですが、この前提というのは当然ながら自分にも適用されています。
あなたは自分を「自分はこういう人だ」という前提で存在させています。新しい瞬間に、新しいキャラクターの自分がいてもいいはずなのですが、昨日と同じようなキャラクターとして今日もここに存在しているのではないでしょうか。逆に、もしその前提がなければ瞬間ごとに異なるキャラクターのあなたがいても一向に構わないわけです。こうした前提によって、瞬時に「そのような現実」が構築されていきます。
何かを見る度に、あなたはそれがどういうものかを定義付けます。その定義付けの際に参考にされるのが記憶です。僕らは自分でも気付かないうちに「それは何か」を判断するために記憶にアクセスします。あなたが「過去」と呼んでいるものは全て記憶なのですが、それは思い出であると同時に、「今」を判断する参考資料としても使われています。現実とは、見ている映像を比較的新しい記憶で総合的に解釈した結果といえるでしょう。
よって、今ここにあるものは、映像と記憶が複合されたものです。現状を認識する際には自動的に記憶へのアクセスが行われ、原因、現状、対策といったことが、半ば自動的に判断されています。
そのようにして、リアルタイムの映像に過去の記憶を重ねてしまうと、映像の「意味」がねじ曲げられてしまいます。では、映像と記憶を分けることはできるでしょうか。簡単に言えば、目にしている映像に、記憶を基にしたナレーションを重ねないようにすることはどうすれば可能でしょう。
それには、記憶の分断を行えばいいのです。記憶の分断と言っても、アルバムをめくるように想い出を振り返ることはいつでもして構いません。素敵な思い出まで忘れてしまえということではなく、余計な記憶を思い出す頻度を下げるということです。