夢や願望というものは「自分以外のもの」のリアクションを、自分にとって心地よいものに変えようとすることとも言えそうです。あなたは「自分以外のもののリアクション」という鏡を通して「自分は何か」を見ているわけですが、そのリアクションがあなたにとって心地いいものであるほど鏡映りも良くなったように感じるというわけです。
人は瞬間ごとに「自分以外のもの」によって描き出される人生模様を目撃しています。あなたの周りを取り囲む「自分以外のもの」は、実に様々な振る舞いであなたの人生を彩ってくれるでしょう。その「自分以外のもの」が描く万華鏡の模様は常に美しいのですが、あなたは「思い通りの模様ではないから」という理由で美しくないと判断しています。
思い描いた通りの模様を描かない万華鏡は不良品なのでしょうか。人生模様に良し悪しはありません。万華鏡の模様と同じように「自分以外のもの」も自由気ままに瞬間ごとの模様を描いているだけです。生きるとは、人生という万華鏡を覗き込んでその瞬間だけ描かれる模様を楽しむものなのです。
あなたは、人生の万華鏡を自分の主観で見て美しいとか美しくないとかと判断しています。主観とは、現実という映像を「自分」と「自分以外」に自動的に区別して見ている視点のことです。「あの人はこういう人」というのと、「自分はこういう人」というのは主観で見ているという点において同じです。対象が置き換わっただけで、主観で見ていることには代わりありません。
自分を客観的に見るということは、自己啓発や道徳的な教えなどで耳にしたことがあるかもしれません。しかし、自分が見ている時点で既に主観なのです。よって、本当の意味で自分が自分を客観視することはできないのです。
自分で自分を客観視することはできないので、他人のリアクションから自分はどういった存在なのかを予測し、想像し、解釈し、自分というものを知ろうとします。「こう思われているんじゃないか」「こう思われているだろう」そういった推測を立てます。
撮影しているカメラ自体を撮影するには鏡を使って間接的に撮影するしかないように、自分を知りたければ他人という「鏡」を使って間接的に知るしかないのです。「他人は鏡」という表現は昔からありますが、ほとんどの人が「人の振り見て我が振り直せ」の意味に誤解しています。
自分の顔は鏡に映すという形で間接的にしか見れないのと同じように、「自分はなにか」を知るためには他人のリアクションという鏡を使って間接的に見るしかないのです。そういった意味では他人は鏡というのは正しいとも言えます。
ただし「他人のリアクション」という鏡は、各々の主観という歪みを持っているので、映る「自分像」はバラバラになります。誰の反応が正しいのか、誰の評価が正しいのか、果たしてそれは自分の真実を語っているのか、それとも的外れな憶測なのか。
他人という鏡を使って自分を見るのはいいとして、どの鏡が歪みなく自分を映しているのかは誰もおしえてくれません。あなたは、あの人の意見もこの人の意見も聞きつつ総合的に判断をします。自分の真の姿とは、そんな断片的憶測の集合体に過ぎないのです。