人は自分以外のものの動向や振る舞いによって、自分の現実がどのようなものであるかを認識しています。わかりやすい例を挙げれば、周囲の人があなたに対してどのような振る舞いをするかによって、自分が周囲の人からどのように思われているかを判断しようとするでしょう。或いは、周囲の人があなたをどう評価するかによって、自分が今どのようなポジションにあるかを確認したりもします。
なぜそうするのかというと、自分を客観視することが難しいからです。あなたの視点で見た世界は、あなたにしか見ることができません。逆に、あなたが他人の視点に成り代わって世界を見ることもできない以上、第三者の視点から自分がどう見えているかということを正確に知ることはできません。
ビデオカメラは人間が目を背けたくなるような現実でも、感情に左右されることなく淡々と撮影を行います。しかし、そのビデオカメラでも撮影できないものが世界に一つだけあります。それは「そのビデオカメラ自体」です。
鏡を使えば間接的に撮影することはできますが直接撮影することはできません。ビデオカメラは世界中にある全てのものを撮影することが可能ですが、唯一客観視することができないものが「そのビデオカメラ自体」ということになります。そのビデオカメラを直接撮影するためには、もう一台のカメラが必要となります。つまり第三者の視点が必要となるのです。これと同様に「自分」というのは世界で唯一、あなたが客観視することができないものです。
自分が物理的な意味でどう見えているかということもそうですし、より広範な意味で自分がどう見えているかは自分ではわかりません。「自分とは何か」というのは極めて基本的な情報ですが、それを確認することは意外なほど難しいのです。自分の主観のみで自分を評価するのは自信がないし、かといって他人の視点に成り代わって自分を客観視することもできません。
そこで「自分とは何か」を知るためには第三者の視点が必要となります。自分の出来る限り正確な評価は、「客観的に見て自分はどうですか?」と他人に委ねることになるのです。カメラの場合はもう一台のカメラを使えば問題はありませんが、人の場合にはそうはいきません。
なぜなら、他人の評価にはそれぞれの主観が入り込むからです。ビデオカメラのように淡々と文字通り機械的に客観視するわけではなく、各々がバラバラの価値観であなたを観るので評価が一定しないのです。
自分の主観のまま、第三者の視点から自分を客観的に見れればいいのですが、ビデオカメラと違って自分は残念ながら一人しかいないのでそれもできません。他人という第三者の視点を気にするのは、自分で自分を見ることができないからなのです。
そうして考えてみると「自分」というのは、「自分以外」の振る舞いを見て、自分が何であるかを推測した結果といえます。他人のリアクションによって自分はどのようなキャラクターなのか、どのような存在でどのようなポジションにあるのかを推測した結果が「自分」なのです。「自分」というのはカッチリしたものではなく、意外なほどグラグラ揺らいでいて安定していないものなのですね。