※この記事は旧サイトに掲載されていた記事の復刻版です。
僕らは「好き」の気持ちに抵抗できない
あなたが異性愛者でも同性愛者でも両性愛者でもいいのですが、男性(あるいは女性)が好きな理由を説明できますか?「理由はわからないけど好きなものは好き」じゃありませんか?
もっと範囲を狭めて、あなたの好きな人というのは、どうしようもなく好きじゃありませんか?好きであることをやめようとしても「はい、そうですね。やめましょう」なんて出来ないでしょう。
その人を好きな理由を説明できますか?「カッコいいから」「可愛いから」程度の理由なら思いつくでしょうが、世界中の俳優やアイドル、モデルなんかを見渡せば、その人よりカッコいい人なんていくらでもいるし、その人より可愛い人なんていくらでもいるでしょう。
好きの気持ちっていうのは、そんなちっぽけな理由じゃないんです。口で説明できるようなものではありません。「どうしようもなく好き」なんです。
好きの気持ちは抑えられません。抵抗しても無駄です。だから手に入らないと苦しいんです。好きなままで手に入らないのは苦しいから、いっそのこと嫌いになってやろうとすら思ったりもするけれど、それもまた苦しい。
僕らは「好き」の気持ちに対して為す術がありません。好きの気持ちはコントロール不可能だし、抵抗することもできないんです。
僕らは願望もコントロールできていない
僕らは好きになったものを欲しくなります。持っていなければ手に入れたいと思うし、少なければもっと欲しいと思います。その「好きだから欲しい」の気持ちを願望と呼んでいます。
前述の通り、好きの気持ちはコントロール不可能です。そのコントロール不可能な「好き」から発生した「欲しい」という願望もコントロール不可能です。
何かを好きになったり、願望を持ったりすることは自動的に発生してしまうので自分には止められません。
僕らは自分で好きなものを選んでいると思っていますが、選んでなんかいません。勝手に好きになるし、勝手に欲しくなります。願望をコントロールすることなんてできないんです。
僕らは願望を叶えることもできない
僕らは願望をコントロールすることもできないのに加えて、願望を叶える力もありません。努力すれば、メソッドをすれば、悟りの境地に至れば叶うのではないんです。
僕らは願望に対して消すことも叶えることもできない無力な存在です。では願望に翻弄されて生きるしかないのかというとそれも違います。
願望に対して無力なのは、普段「自分」と認識している自分です。願望実現の世界では顕在意識とかエゴとか呼ばれている自分のことです。
小さな自分とか、体験する側の自分とか、あなたにとってしっくりくる表現で構いません。
この体験する側の自分は、願望に対して無力ですが一つだけ権限が与えられています。
それについては後ほどお話しします。
願望を発生させているのも結局は自分
湧き上がってくる願望を止めることもできず、叶えることもできない。願望を持つこと自体が苦しみの原因ならば、いっそのこと願望なんて湧き上がってこなければいいのに。
そんな意地悪な願望はどこから湧いてくるのでしょうか。
願望の発生源は自分です。
「さっき、願望は勝手に湧いてきてコントロールできないって言ったじゃないか!」と反論されそうですが、願望に振り回されているのは「体験する側の自分」です。
自分では意識していないのに、勝手に何かを好きになる、好きになったら欲しくなる。なにかおかしいと思いませんか?
実は「体験する側の自分」が好きになりそうなものを出現させている何者かがいるんです。それが「創造する側の自分」です。
役割が違うだけで結局は自分です。願望実現の世界では創造する側の自分に、宇宙だの、別の領域だの、潜在意識だの、神だのと勝手に大層な呼び名を付けています。
変に「神秘的なもの」とか「魔法の力」みたいなイメージを植え付けられるぐらいなら、「大きな自分」とか「創造担当の自分」とか「プレゼンターの自分」とか、しっくりくる呼び名でいいです。
創造する側の自分は何でも実現できますが、それを体験することはできません。
体験する側の自分は何も実現することはできませんが、体験することができます。
役割が違うだけで結局どちらも自分です。
僕らは創造する側の自分の存在を知らないか、知っていても信頼を置いていないんです。自分が体験することだけが真実と思い込んで、実現する力がないのに願望を叶えようと悪戦苦闘している。
何かを好きになるのも、願望を持つのも、その願望を叶えるのも体験する側の自分ではありません。体験する側の自分は、創造する側の自分の手の中にいることを知ってください。
願望という言い方をやめる
願望は願望ではありません。願望とは、創造する側の自分が「こんな現実を体験できるよ」と体験する側の自分にお知らせしているサインです。
あなたが今持っている願望は、例外なく「こんな体験ができたらいいな」というのものでしょう。
「お金持ちになりたい」でも「好きな人とイチャイチャしたい」でも何でもいいんですが、その願望がなぜ湧き上がってくるのかというと、体験する準備が整ったからです。
存在しないものは湧き上がってきません。存在しないものを感じ取ることは不可能です。願望という形で感じ取ることができているのなら、それはもう存在しているということです。
願望と捉えると「頑張って叶えなければならないもの」というニュアンスが含まれるので、願望という受け取り方はもうやめてください。体験する側の自分に叶える力なんてありませんから、願望と捉えている限り一生願望のままで終わります。
叶える必要はない。放っておく
僕らが願望と捉えているものは「体験する準備が整った現実」です。
創造する側の自分が、体験する側の自分へ「こんな現実があるけど体験する?」ってお知らせしているんです。
創造する側の自分はどんな現実でも創ることができますが、それを体験することは逆立ちしてもできません。だから体験する側の自分が喜びそうな現実を創り上げて、願望という形でオススメしてくれるんです。
創造する側の自分は体験できないけど、体験する側の自分が喜んでくれればいい。だってどっちも自分だもん、というわけです。
けれど、それが創造する側の自分からのプレゼントであることも知らずに、「どうすれば叶うのかな?」と言っているのが体験する側の自分です。
体験する側の自分は願望を叶えることはできません。なぜならその願望というのは既に「体験する準備が整った現実」だからです。つまりもう叶っています。叶っているのに叶えようとする。意味が分かりません。
体験する側の自分に与えられた権限は一つだけです。
創造する側の自分の「こんな現実があるけど体験する?」に対して、「はい、体験します」か「いいえ、体験しません」を選ぶことのみ。
選んだら、あとは創造する自分に任せて放っておきましょう。何とかしようとするのをやめるんです。
「それを体験する」と決める
僕らは願望に翻弄されて苦しむ存在ではありません。願望という名の「体験する準備が整った現実」を楽しむ立場です。その「体験する準備が整った現実」を創っているのも自分。体験する側の自分が自然に好きになり、自然に欲しくなるのも当然です。全部自分で完結しているんです。
僕らは今まで、創造する自分が創った「体験する準備が整った現実」を体験することを拒否してきました。
「どうすれば叶うんだろう」
「どうしても叶えたい」
「自分には無理だ」
「こんな性格だから」
「こんな見た目だから」
何もかも関係ありません。
自分が創った現実を自分が体験するだけです。
仏のような人間性である必要はないし、見た目がどうだろうと、年齢がいくつだろうと、引っ込み思案だろうが、いい子じゃなかろうが、メソッドをしようとしまいと、完全に理解していようといまいと全く関係ありません。
・願望ではなく「体験する準備が整った現実」と認識する。
・体験したい現実なら、体験すると決める。決めたら放っておく。
本当にこれだけです。
創造する側の自分が、体験する側の自分が喜びそうな現実をどんどん送り届けてくれます。世間一般でいうところの「願望」という形でお知らせが届きますから、そのときはこう決めてください。
「それを体験する」