※この記事は旧サイトに掲載されていた記事の復刻版です。
朝いちばんの思考は誰が考えたのか
夜の眠りに就いている間、あなたは「自分」から解放されています。「自分」という認識はなく、日中あれほど頭を悩ませていた問題からも解放されているでしょう。
朝の目覚めと共に、あなたは「自分」を取り戻します。
朝いちばんの思考はなんでしょう?
昨日の悩みの続きでしょうか。それとも、ここ最近頭を悩ませている問題でしょうか。あるいは、長く思い煩っていることでしょうか。
逆に、昨日の嬉しい記憶かもしれませんし、「何時だろう?」という実用的な疑問だったり、「今日も1日が始まった」という漠然とした思考かもしれません。
あなたの存在が消えていた眠りの中と、あなたが世界に発現している起きている間。
その中間地点とも言える朝いちばんの思考。
さて、朝いちばんの思考は誰のものでしょうか。
果たしてあなたは、「昨日の問題について考えよう」として考え始めたのでしょうか。
違います。
朝いちばんの思考は勝手に浮かんできたんです。
朝、目覚めた直後のあなたに降りかかる思考はあなたのものではありません。
自動発生的に浮かび、そこから連鎖反応のように思考が繋がっていきます。その大半は、どちらかと言えば悪い方へ流されていくことが多いでしょう。
思考が暴走して止めようにも止められなくなった経験は誰でも一度ならずあるでしょう。
考えれば考えるほど悪い方へと向かってしまい、元気を無くし、食欲も無くしてしまったことがあると思います。
自動的に発生し、暴走を止めることができない。
そんなものが「私の思考」と呼べるのでしょうか。
今回はここをスタートとして、お話を進めていきましょう。恐らく、あなたの想像とは違う地点へと話は展開していきます。
思考が”この肉体”に自分を閉じ込めている。
朝いちばんの思考の例の通り、「私の思考」だとあなたが信じているものは、あなたの思考ではありません。
あなたの思考であれば、朝のまどろみの中で「コレについて考えよう」というところから思考がスタートするはずです。
そして、本当に「私の思考」なのであれば、あなたが立ったり座ったりするのと同じように、進めたり止めたりすることが自在にできるはずです。
あなたは思考を止めようとして止めることができますか?
瞑想の達人であれば可能でしょうが、大半の方は難しいはずです。
思考とは何か。ざっくりと二つの性質が分かったでしょう。
・自然発生的である。
・コントロール不能である。
正に、頭の中を暴れまわる台風のような存在です。
勝手に湧いてくる上にコントロールできない。
そんなものが「私の思考」と呼べるのでしょうか。
では、ここで逆に考えてみましょう。
もし、あなたから思考がなくなったらどうでしょう?
あなたは何も思い悩むことが無くなります。
なぜなら悩みは「私の思考」だからです。
あなたの世界から他人は消えます。
なぜなら自分と他人を分けているのは、他人とはこういうものだという「私の思考」だからです。
あなたの世界から世界は消えます。
なぜなら世界を存在させているのは、世界はこういうものだという「私の思考」だからです。
あなたというものが消えます。
なぜなら「自分」を存在させているのは、「私の身体」「私の性格」「私の日常」「私の人生」といった「私の思考」だからです。
あなたという存在は、自然発生的でコントロールできない思考によって成り立っています。
裏を返しましょう。驚くべきことがわかります。
「私が考えている」のではなく、「考えるから私が発現する」ということです。
あなたは考えるということそのものによって存在しています。このとき、考える内容に大きな意味はありません。「私が考えている」という認識だけがあればいいので内容は問わないんです。
「我思う、故に我在り」という有名な言葉があります。真意のほどは僕にはわかりません。
なので平たく言いましょう。
「自分が考えているのではなく、考えるから自分が発生する」ということです。
あなたは「私が思考している」と信じたときだけ自分となることができるんです。
自分が思考しているのではない。思考によって”この肉体”に自分を閉じ込めている。ということです。
あなたの行動は誰の行動か
あなたは思い通りに行動しているでしょうか。
あなたの答えがイエスならば、次の観点から見てみてください。
「自分の考えに従って行動している」は、裏を返せば「自分の行動は思考に従っている」です。
ところが、その思考は自然発生的でコントロール不可能。しかも「私の思考」ではありません。
あなたは思考を「私の思考」と錯覚したまま生きてきました。その結果「私は自分の考え通りに行動している」と思ってしまうのです。
ここまでのお話を振り返って考えてみましょう。
・思考は自然発生するコントロール不能なものである。
・「私が考えた」という錯覚が「自分」を肉体に閉じ込めている。
あなたは今まで一度も「自分で考えた」ことはありません。ということは、あなたは自分で考えて行動しているのではないんです。
ならば、何か目に見えないものに操られているのか?というとそうではありません。
行動自体に特に意味はないということです。
あなたが願望を叶えるために取ってきた行動。
それが恋愛成就ならば、相手に連絡を取ったり、外面と内面の双方で好印象を持たれるように努力したり。
それが仕事関係ならば、懸命に仕事量をこなそうとしたつり、スキルアップの努力をしたりといったこと。
あなたが「こうすれば良くなるだろう」、あるいは逆に「こうしたら悪くなるだろう。気をつけねば」と取ってきた行動は、願望実現の観点からすると特段何の意味もなかったということです。
なぜか?
そもそも、それらを叶えようとしている「自分」というもの自体が思考で成り立っていて、その幻のような自分が「叶った」「叶っていない」を思考しているからです。
願望とはなんでしょう?
思考です。
実現とはなんでしょう?
思考です。
自分とは?他人とは?世界とは?
思考です。
世界がある、と認識している自分自身が思考することによって存在しているのですから、全ては思考の産物であるということです。
そう。自然発生してコントロール不能な思考の産物が、この世界だったんです。
風の吹くまま。気の向くまま。
思考とはなんでしょう?
思考とは風です。
ときに心地よくサラサラと流れていき、ときに暴風となって吹き荒れるもの。
発生源は特定できず、気まぐれに方向を変えてしまうもの。
思考が風ならば、あなたにできることはなんでしょう?
吹き付ける嵐に翻弄されるだけなのでしょうか?
風に対して、あなたは発生源を特定しようとするでしょうか。
なぜ風が吹くのかと憤るでしょうか。
風を止めようとするでしょうか。
同じことです。
思考の発生源を特定しようとしても無意味です。
なぜこんな風が吹くのかと憤ったところで収まりません。
風を止めようとしても無理でしょう。
そんな自然発生しコントロール不能な風に対して、あなたができることが一つだけあります。
それは観測すること。
風速は何メートル。風向きはこっち。
あなたは思考する者ではありません。思考を観測する者だったんです。
思考は特段の意味もなく、ただ流れていると気付く者。
それがあなたです。
どんな風を観測したのか。あなたの現実はそうして出来上がっています。
それがどれだけ夢のような風であったとしても、あなたがそれを観測したと決めたなら、それがあなたの現実です。
流れてゆく風を感じて、嫌いな風には「ふーん」と言って興味を示さず。好きな風に気付く。
思考は風。それに気付く私。
それを表した素敵な言葉があります。
「風の吹くまま。気の向くまま。」