僕らは普段、心臓が鼓動していることにほとんど意識を向けていません。同様に、日常の中で呼吸に意識を向けることもほとんどないでしょう。「そういえば鼓動している」し、「気が付けば呼吸している」のです。
「よし、心臓を鼓動させよう」とか「よし、呼吸しよう」と意気込まなくても、それらは勝手に起こっています。このように勝手に起こっているものは他にもあります。食べ物を消化するとか、細胞の新陳代謝などです。これらを意図的に止めることはできないでしょう。
勝手に起こっているものの仲間には、思考も含まれます。あたかも自分が考えているように感じますが、どんな内容の思考であれ、それが出てくる一瞬前はどんな思考が出てくるか予測できていないのです。
本来、鼓動も呼吸も思考も勝手に起きているものなのです。鼓動に意識を向ければ鼓動していることを認識するし、呼吸に意識を向ければ呼吸していることを認識するし、思考に意識を向ければ思考していることを認識します。
これらの勝手に起きているものの中で、意図的に止めることができるのは二つ。呼吸と思考です。鼓動や消化などは自分の意思で止めることはできないでしょう。
考え事に没頭しているときは、僕らは自分が呼吸を続けていることを忘れてしまっています。逆に、呼吸に意識を向けていると思考に強く意識を向けていたことに気付きます。
勝手に起きているもので、尚且つ自分で意図的に止めることができるもの。そう考えると、呼吸と思考は共通点があります。なるほど、瞑想が理にかなっていることがわかるのではないでしょうか。
瞑想といっても、必ずしも静かな環境に身を置かなければならないのではありません。普通の生活の中で、呼吸に意識を向けてみるだけでも大丈夫です。スーハースーハー。自分が呼吸していることに気付いてください。自然と繰り返していることに気付いてください。
どんなことを考えているときでも、あなたが何をしているときでも、スーハースーハー。呼吸は連綿と繰り返しています。思考もまた、自然と繰り返しているだけのものなのです。思考は呼吸と同じように自然発生していて、特に意味のあるものではないのです。
僕らは、普段あまりにも思考に意識を向けすぎています。あまりにも没頭しすぎていて、思考が語ることを「現実」と錯覚してしまいます。浮かんでは消え、浮かんでは消え、吸っては吐き、吸っては吐き。一回一回の呼吸が、ただ行われているのと同じように、一回一回の思考もまた、ただ行われているのです。
一口に思考といっても、似通った思考が何度も浮かぶという現象は誰にでもあるでしょう。ときにそれは悩みと呼ばれたり、ポリシーと呼ばれたりします。
そうした繰り返される思考の癖のことを「観念」と呼びます。観念はいつしか「常識」や「当たり前」に姿を変えて僕らの中に居座りますが、観念を細分化していくと、過去に浮かんだ一回一回の思考に「YES」を出し続けた結果なのです。
思考は現れては去っていきます。「その通りだ」と思うものもあれば、「そんなわけないか」と思うものもあるでしょう。どんな思考が浮かんでも構いませんし、どんな思考に「YES」と言っても、「NO」といっても構いません。
呼吸に正解も間違いもないように、思考に正解も間違いもないのです。思考に意識が向きすぎていると気付いたときには、呼吸している自分に気付いてください。思考もまた呼吸と同じように、意思とは関係なく繰り返される自然の営みなのです。